翻訳と余禄

一トンの水

■ 拝名

 

 あっくんというのは五歳の男の子だ。わたしたちは、この間初めて会った。あっくんには、知らないことがある。 

 あっくんからは「大きい女の人」ということばがたびたび出てきた。最初は語尾を濁しながら、そのうち明瞭な声で。なぜ女の人にこだわるのか不可解だったが、彼が自分のお菓子をわたしに分けてくれたとき、そのことばでわたしを呼んでいたのだと気づいた。彼は、わたしの名前も「あなた」という言い方も、知らなかったのだ。 

 わたしの手を引っぱって大人だらけの食卓から引きはがそうとする彼の目を見て、わたしは言う。「わたしはね、まりこっていうの。呼んでみて」 

 

 あのときなぜ、「まりこ」が名だと教えたのだろう。もうすでに明瞭な声で発音されるようになっていた「大きい女の人」を、わたしの呼び名とすることもできたはずだ。もちろん、「大きい女の人」では彼が感じているわたしのイメージを表しきれず、わたしを他の人間から峻別しきれない。ことばは、個々人が抱くひそやかなイメージを削ぎがちだ。でも、もしわたしたちの間で「『大きい女の人』をこの人の名前としよう」と二人で取り決めたとしたら、どうだったろう。 

 まりこ、と呼ばれたときわたしの心は、急に触れられた声の指にくすぐったがった。自分があっくんのイメージのわたしとして生まれ直したように、どぎまぎした。 

 けれど「まりこ」という単語も、彼がわたしに抱くイメージを表しはしない。そもそも、生まれたときと今とではわたしはまったく違うひとだし、今後も変わり続ける。相手が変われば、わたしが誰であるかも変わる。ことばが限られたイメージしか伝え得ないのなら、個人のその人らしさなんて可変でおさまらないものを、ことばが指し得るだろうか。 

 でも、わたしはこの単語で指され得るのだ。最初は赤ん坊の肉体につけられた単語でも、これがまだ存在しない自分も含めてわたしを包括するのだということを、わたしが引き受けたから。 

 

 いつしか、ことばは名前となり、わたしとなる。そして「大きい女の人」という呼び方を退けて「まりこっていうの」と言うとき、わたしは自分自身をとび越えて、名前になりたがってさえいる。