翻訳と余禄

一トンの水

■ 地下水脈の音

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 毎日毎日、かなしい。

 なぜ何がかなしいのか分からないのだけれど、強いて考えてみると、生きていることがかなしい、としか言いようのない芯が胸のなかにある。からからに乾いた海綿のように、握ったらつぶれて肌を傷つけそうな、きれいなわけではないのに扱いに気を付けなければいけない、やっかいな芯だ。なぜ乾いてしまったのだろう。この間までは、たっぷりの水分を含んでいたはずなのに。ここからエネルギーがしたたっていたのに。

 

 夜、かなしさから逃れたくて枕に顔をうずめ体をまるめる。朝起きると、まるで長いまばたきをしていただけのように何も変わらないまま、まだかなしいのだ。泣きそうになりながら身支度をして、下を向いてしまう顔をどうにか前を向かせ、歩いていく。

 

 母の思い出話にでてくる幼いわたしは、どれも笑ってしまうほど機嫌がいい。にこにこしているどころではなく、でたらめの歌を歌い、踊り、空想をおしゃべりし、そしてとびっきり楽しいことが終わってしまった後でも、いつも次を楽しみにしている。泣き方が激しく癇癪持ちだったとも聞いたことがあるので、いつでもご機嫌だったはずではないと思うけれど、成長し年齢を重ねるにつれて、落ち込みやすくなっているのは確かだ。

    ちなみに弟は、大学に入るまでは本当にいつも機嫌がわるく、やるせない何かにいつも怒っていたけれど、大人になってすっかり落ち着いた人になっている。わたしたち姉弟は、似ていないどころか、全てが正反対だ。わたしたちにとっては、違っていることが姉弟の証になる。

    わたしは、小さい頃の借りを取り立てられているかのように、悲観的でアイロニーになってしまった。

 

 好きな人が夜に電話をかけてくれたとき、はじめのうちは今週考えていたことや出来事などを話しているのだけれど、そのうち、わたしはどうしても我慢ができなくなって、かなしい、と言ってしまった。一人ノートに言葉を落とすように、ぽつぽつとこのかなしみやその理由を話すと、電話の向こうで十分な沈黙のあと、あんまりにも真っ当な悩みだから、なんとも答えられないな、とやっと重々しく返ってきた。真っ当な悩みかな、とわたしのほうが少し笑ってしまう。だれもが持ち得る悩みらしい悩みだ、とやはり大真面目に評してくれたあと、何かやっていることが形で残れば、後々それが証明となって支えてくれるかもね、としごく実際的なこたえもくれた。わたしは落ち込みやすいので、こんな風な向かう先のないわたしの吐露を、今までも幾度もこの人は聞いているけれど、この人は、こうやっていつもわたしの真正面にしっかりと立ち、わたしがどんなに風を吹かせようとも、よけずに受け止めてくれる。

 

 朝でも夜でも、かなしみが満ちてきたときは英単語帳のページや、英語講座のラジオを取りだす。リュックを使っていることもあり、かばんからそういうものを取り出すのは少し面倒だ。だからこそ、わざわざえいやと気合を入れなおして、かばんから掬いだす。そういう手順が、人の気持ちがちがう場所に歩をすすめるのを、後押ししてくれる。信仰にも似ている。祈りや祭という行動やその手順が、人々の心の中に神さまの輪郭を描き、神さまが誕生する。

    わたしにとって英語の知識を頭に入れることは、なぜだか強烈な鎮静剤なのだ。普段から英語の勉強に真面目になりきれていないから、時たま勉強するときはせめて何ももらさないようにしたいと思っているのも関係しているだろうし、何より、生きていってもよいかもしれないとなんだか思わせてくれる。好きな人に電話でそう言ったとき、語学を知っているのは必ず役に立つものね、と言っていた。わたしは、わたしが英語を役立てる日は来るのかな、なんて皮肉を言ったけれど、もしかしたら確かに、英語の知識をたくわえることは未来への準備であると、わたしも体のどこかで思っているのかもしれない。未来への信仰と祈りが、外国語の勉強に込められている。

 

 かなしみに足を取られている場合ではないから、それを忘れるようにして何かに走っていければいいのだけれど、まだ体の奥から、不穏な脈打ちがかすかな波動を送ってくる。でも、その脈打ちすらも今のわたしだ。わたしはこれから、自分の奥で脈打つ地下水脈の響きに、耳を澄ましていきたいと思う。

 

<Photo: Eiki Mizutani>