翻訳と余禄

一トンの水

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 4:30に家を出なければいけない。行ったことのない自由が丘に行かなければならない。会ったことのない人と一緒に車に乗らなければいけない。つまり、なにがなんでも遅刻してはいけない。

 はっと起きる。出発までぎりぎりだけど、どうにかなる時間。と思ったら、寝ている間に時計が20分遅れていた。結局遅刻した。しかも「起きたら時計が遅れていた」なんて変な言いわけをしながら。これだったら、寝坊して遅れるほうがまだいさぎよい。

 焦って駅まで歩く間に、携帯電話が手からとび出て、道路に打ちつけられた瞬間にケースがはじけ飛んだ。道路に散らばるケースと携帯電話を拾っていると、走ってきた車の前にとび出しそうになり、クラクションを鳴らされた。寝ている間に時計が20分遅れただけなんだから、落ち着かねば。

………

 パーキングエリアで初めてのトイレ休憩。同乗している男の子の名前を間違えていたことが分かった。一人で思いちがいをしていただけでなく、彼をその名で呼び、彼本人にもその名で呼びかけていた。ああ、恥ずかしい。顔をおおってしゃがみこんでしまいそうになったが、恥ずかしさを押しやり、正直に間違えていたと白状して笑うことができた。年をとるといいことは、無神経になれることね。さっき彼はクレープを食べたいと言っていたので、クレープを買ってあげよう。

……

 トイレが終わり、その彼のところへ行くと、テーブルの上でクレープ生地をひろげ、いちごとブルーベリーをのせ生クリームを絞っていた。自分でクレープ生地を焼いて持ってきていたのだ。しかも、できあがった二つのクレープの、一つをくれた。名前を間違えたお詫びに買ってあげようと思っていたのに、逆にもらってしまった。名前のことは謝った。

……

 運転手を代わった。久しぶりの運転。初めて乗る車種。他人のマイカー。そう気づいた瞬間、目の際が脈打った。あ、今ストレスが体にかかったんだ。持ち主夫婦が二人とも後部座席に入ろうとしていたので、どちらかは助手席に来てほしいとお願いをした。旦那さんが前に来てくれることになった。

 運転席に収まった瞬間、バーやボタンの操作を教えてくれようと、旦那さんが手を伸ばした。彼は、自動追従システムについて、細かく説明をしてくれた。むしろ、それしか説明がなかった。わたしはもっと、ウインカーの出し方やサイドミラーの動かし方、座席の調整やサイドブレーキ(どちらもバーがなかった)について知りたかったのだが。

 アクセルの感触もままならないながらも、無事高速の合流がすむと、旦那さんから自動追従システムを入れたらどうかと、やわらかくも強いアドバイスが入った。これはその後、わたしが何か――車線変更やスピードアップ――するたびに、横からじわじわと迫ってきた。

 帰りの運転でも、運転手が交代したとき、すかさず自動追従について丁寧に説明をしていた。そのことを皆で笑って分かったのだが、奥さんにも自動追従をしつこく説明していたらしい。

……

 レンタルショップではなく、宿でウエアやスキー板を貸りることができた。宿主のおじいさんに、一人ずつ名前と必要なものを申告する。人の良さそうなおじいさんが、にこにことわたしの申告を書きつけ、最後にわたしが何も持っていないことを確認すると、後ろから、この旅の企画者がよく通る声でおじいさんに言った。何も持っていないかわいそうな子なので、安くしてあげてください。300円、まけてもらった。

……

 カツカレーの大盛りを頼んだ人が、いつまでも食べ終われずに、最後までゆっくりとスプーンを口に運んでいた。白いご飯とカレーが、まだらになっている。そんな彼を見ながら、この旅行の企画者である太陽のような先輩が、同情していた。大盛りなんて簡単に平らげていたのに、もう食べられなくなってきた、と。同時に、わたしにも矛先が向いた。わたしは大盛りどころか、食事の回数が減ってきていたので、先輩にうなずき返しはした。けれど、わたしたちは年が二つもちがう。わたしの食の細さも、年齢ではないような気がする。

 ゲレンデに出ていよいよ斜面を前にしたとき、先輩がふたたび、しかも今度はさらに神妙に、年齢のことを口にした。初めて聞くこの人の弱気な声は、わたしをたじろがせた。内省的な空気をはらいのけたくて、彼の年齢をわざとからかうと、わたしが一才分多く勘違いしていたようで、まだそんな年齢ではありませんー、と小学生のようにおどけてくれる。でもまた真面目な声で、でも年齢は感じるよ……と言うから、わたしはもうどうすればいいのか分からなくなってしまったのだが、その後に続いたことを聞いて、もうどうでもよくなってしまった。「だって、モテなくなったし」この先輩、もう数年前に結婚している。

……

 一緒に滑っている人が追いつくのを、途中途中でわたしたちは待っていた。そこは、ちょうど斜面が二又に分かれる場所だった。たくさんの人が、横をすり抜けていくのを眺めていると、後ろから話しかけられた。

 Excuse me. Do you know which way is more for biginners?

 まだどちらの斜面も滑ったことがなかったので、どうにも答えようがなく、じっくりとそれぞれを眺めて、わたしたちは左を勧めた。そちらには、降りたところにリフトの乗り場が集まっていたのだ。あそこまで行けば、他のコースにも行ける。もっと易しいコースがあるかもしれない。話しかけてきた彼女は、一人だった。一緒に来た友人がとても上手で、彼に自分を待たせるのが申し訳なくて、別れてすべることにしたのだそうだ。だから自分は上手くなくて......と言いながら、不安げに左のコースを見下ろす。スキー教室の一団を黙ってながめ、子供たちは上手でいいね、なんて言っている。本当に左のほうが簡単だと思うかと、念押しまでしてくる。すべり出す気配が微塵もないのでおかしくなってしまい、まだ見えないほど後ろの方にいる自分の仲間たちから気持ちがはなれ、彼女にわたしたちも一緒に行こうかと申し出た。

 ぜひ、という彼女を、先に行かせることにした。たしかに、斜面を下りはじめる姿は危なっかしげだ。わたしたちは顔を見合わせてからそろそろと後に続くと、突然、彼女のスピードが上がった。ブレーキなど一切かけずに、決してゆるやかとは言えない斜面を、不恰好な直滑降でつき進んでいく。わたしたちも全速力で追いかけるが、彼女はどんどん小さくなり、目で追いかけていた鮮やかなウェアーは、ほどなく雪の白にとけてしまった。

 斜面の下に着いても、結局彼女は見つからなかった。暖冬で人の少ないゲレンデで、わたしは次の日になっても、彼女をさがしていた。英語が聞こえたら、振りかえって彼女か確かめてしまう。けれど、決して見つからなかった。最初から彼女はいなかったと思う方が自然なほど、とけて消えてしまった。