翻訳と余禄

一トンの水

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 もう起きなければいけないことには気づいていたけれど、何度でも目をつむる。どうにか起き上がり、目を覚ますために筋トレをしようと開いているスペースにあおむけになった。そのとき、側のポインセチアの鉢植えに手が当たり、花が終わった後のガクが飛びちり、ひとつが目の中に落ちた。

 痛みともちがう、でも目のなかの圧倒的な存在感。隙間に詰まった小石のように、わたしのまぶたを開けさせない。すぐに闇の中で洗面所まで走り、洗浄液をカップに入れ、目に当てて上を向き、眼球をぐりぐりさせながらまばたきをする。絶対に目からは出ていってほしい。ようやく目から離した洗浄カップの中には、かすかな靄以外、なにもなかった。もう一回カップを押しあて天井を仰ぐが、やはり何も出てこない。でも目の違和感もなっている。

 ポインセチアのガクが目の中でどこに行ったのかは気になるけれど、とりあえずよしとする。もう十分に目は覚めていたけれど、筋トレはした。

......

 来ているメールは少ないながら、一つひとつが面倒なものばかり。面倒を片付けながらも、さっきのガクが気になり、調べずにはおられない。

 目の中に入ったごみは、たいていは気が付かないうちに外に出ているそうだが、奥に入りこんでしまうと、違和感もないまま残ってしまうらしい。お米が目から発芽した例が書いてあった。涙で芽吹いたイネの新芽なんて、どんなにか細くやわらかく涼しげな緑だろうか。

......

 食卓でお昼を食べた流れで、そのまま食卓で続きをする。仕事が休みの同居人も、洗濯を終えてスパゲティを食べている。今日も、なにやら不穏な情報が入る。どんな備えができるかを話し、でも結局どうすればよいのかはよく分からない。

 わたしは夕方の外出の準備で、あわただしくなってきた。会話もままならない。沈黙。頭の中だけが、どんどん忙しくなり、焦ってくる。顔をパソコンから上げてみると、四枚重ねた座布団の上に座っている彼女が、腕をあげて両脇を伸ばしていた。パジャマのすそからお腹が見えている。お腹を出しながら、重ねすぎてゆらゆらする座布団の上で、リズミカルに体をゆらしている。白くて、柔らかそうなおなか。そして言った。「昨日買ってきたケーキで、おやつにしませんか」

......

 二日ぶりの外は、思っていたよりも白っぽく、そして変わらなかった。友だちと遊ぶ人たち、マスクをしていない人、歩きたばこをする人までいる。もっと閑散として張りつめているかと思っていた。家で一人で情報ばかり集めていたから、大げさに思い詰めていただけかもしれない、という考えが一瞬よぎった。でも、これはそういうものじゃないはずだ。視野が狭くなったときの悩みとは、わけが違う。空気を胸いっぱい吸って、上を見上げて目のまえが明るくなっても、解決には近づかない。

 乗り換えたターミナル駅、それから降りた駅にも、想像以上に人はいた。みな、マスクをしている以外は、なにも変わらない。頭を寄せあいながら立ち話をする人々や、近い距離のまま歩く人の流れを見ながら、不思議な感じがした。この感染は世界規模の異常事態なのではなく、これが通常状態なのではないだろうか。もし、これがここだけでしか起こっていなければ、ここが異常な事態の発生地となる。だけれど、地球上の多くの場所で同じようなことが起こっているということは、これは単なる摂理なのではないか。何も大げさに心配する必要はないという思いが、また顔をのぞかせた。

......

 町ではソーシャルディスタンスを取ることなど、無理なのだ。他の人が気にしていないのだから。容赦なく近づいてくる。お店に入れば、店内の広くはない通路で、だれかの近くにいざるを得ない。マスクをしていれば、もういいんじゃないか。家に帰ったら手を洗おう。きっとそれで大丈夫だ。

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 スーパーに寄ると、先週末とは打って変わって、品物がきちんと並んでいた。わたしたちをもてなすかのように、整然と積まれたたくさんの野菜で、商品棚がいつもより大きく見えた。スーパーが、大量購入に備えて多めに入荷したらしい。先週は空っぽだった納豆の棚に、納豆の壁ができているのを見て、ようやく思い直した。

 やっぱりこれは、なにか変だ。